本公演にご来場のお客様、ご支援いただいた皆様、誠にありがとうございました。

多くの反響をいただきました今回の試み。次の展開に繋がることを期して、「Forum」ページを立ち上げました。ご参加された方々、お読みになられた方々などからのご意見・ご感想を随時掲載していきます。オープンな意見交換の場としてご活用ください。

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2014年4月5日土曜日

06. 花田雅美「『RE/PLAY (DANCE Edit)』に出演したことで感じたこと」

これは私達の物語でもあるのだ。
演者が客席をみる。見て見られる。という行為を繰り返すことによって、この言葉が私の胸にうかんできました。

繰り返していくうちに、心の中に浮かんでは消えていく感情。
私はその感情と身体を、演じる側としてどのように扱っていくのか。

繰り返しとも思われる日々の中で、私達の心の中に浮かんでは消えていく感情。
ほとんど語られることのない、その静かな消耗はどこへ向かっていくのか。

終演後この公演を観た方から、生に向かっているようにみえた。という内容の感想をお話いただいた事がありました。
うまく返事もできずにいたのですが、この作品そして舞台芸術が持つ力を、あらためて感じる時でもありました。


花田雅美[ダンサー/『RE/PLAY(DANCE Edit.)』振付・出演]

2014年4月4日金曜日

05. 高橋雅臣「非合理的なことが非合理的であるがゆえに、合理的になる瞬間」

今年二度目の大雪に関東地方が見舞われた2月14日(金)、横浜、急な坂スタジオにて『RE/PLAY(DANCE Edit.)』を観た。
八人のダンサーがサザンオールスターズの『TSUNAMI』にはじまり、数曲、再生回数も曲ごとバラバラに躍り続けていく。

リズムという共通項で視覚と聴覚を束ねると、なにもないフロアに、カラフルなダンスと音楽の小宇宙が浮かび上がってくる。
それまでダンスに馴染みのなかった私は、人間の身体の動きがこんなにもおもしろいのかと気付かされ、ダンスという表現をもっと観てみたくなった。

配布されたパンフレットには、俳優とダンサーの違いについて、前者が人間になるのに対し、後者は人間以外の何かになるとあったが、まさにその通りであった。
けれど、ダンサーが人間であることをやめて目の前に存在するとき、むしろ、その背後にいる「人間」が、まるで金環食のように強く意識された。

この作品は台詞は一部を除きほとんどない。
各場面の並び(曲の順番)に物語りが立ち現われてくる。
目の前の八人それぞれのダンスの魅力と対比的に、物語は踊ることそのものを相対化していくように感じられた。
例えば、The Beatlesの『Ob-La-Di, Ob-La-Da』が何度も何度も反復される場面では、少しずつ小さな変化はあっても、ダンス一回一回の価値が相対化されていく。
作品を通して踊っている最中に時折ダンサーがそれぞれその場に倒れるところや、唯一台詞が交わされる「打ち上げシーン」では、ダンサーがダンサーであることの隙間から、生身の人間ひとりひとりやその生活が見えるようだった。

言うまでもないことだが、ダンスに限らず、芸術は究極的には、個人が生きていく上でも、社会にとっても、なくても構わないもの、または優先順位の低いものである。
人はパンのみで生きるにあらずと云っても、まずパンがなくては何もない。
ある作品がどれほど素晴らしいものであっても、それに比例して、求める人がいつも増えるわけではない。
あえて挑戦的に言えば、世の中からはほとんど無視される場合の方がずっと多いだろう。
そのことは、当然、芸術によって生きている人の生活とも無関係ではない。
だから、しばしば、芸術の社会的な機能や、個人的な効用を以って、社会や自分自身に説明する「理由」を探す。
それは、ときに必要なことだろう。
けれど、目の前にあったのはもっと根本的なことだった。

一時間以上続いて最後に踊られるPerfumeの『Glitter』は極めて運動量が激しい。
ここまでくるとダンサーが踊っている最中に「倒れる」のが、演出なのか、本当に疲労でそうなっているのか、もはや境目が曖昧になっていく。
ついには観ている側にとってフィクションであることをやめていた。

非合理的なことが非合理的であるがゆえに合理的になる瞬間だった。
意味があるからいきるのではない、意味などなくてもいい、むしろ、ただそれをいきていたいと強い衝動でいきたとき初めて意味がうまれる。
そこに達したとき、作品は観ている者に自分も彼ら彼女らのようにありたいという衝動を与える。

この作品は、ダンスや芸術だけではなく、人がいきるということそのものの比況にもなっている。
理屈を辿れば、私達がいきることそれ自体、非合理的でしかないだろう。
何かのきっかけで、積み上げてきたことが無になる。
どんなことであろうと長い年月を経れば結局は跡形もなくなる。
けれど、限界まで踊り続けている目の前のダンサー達は、そんなことは私達がいきる上でさほど重要ではないということを身でもって示してくるようだった。
たとえどこまで非合理であっても、いきてしまっている、そのことへの強い肯定だった。

こちらに考えさせる、心地のよい「前衛」であった。
この作品が「既にある何か」を壊すという企図あるいは行為それ自体が目的なってしまったがために、その結果に対して無責任な「悪い前衛」なのではなく、「そうせざる得なかった」ことが結果的に、既存にはない新しい表現方法となっているからではないだろうか。
一方で、物語の伝達の手段となることとは関係なく、ダンスそのものが魅力的で、
演劇作品であると同時にダンス作品にもなっている。
この作品にか触れる機会がわずかな人達しなかったのは惜しい。

ある作品が良いかどうかが最終的に、触れる前後で少しでも世界の見え方が変わったり、もう一度それに触れたくて仕方なくなったり、誰かに話さずにはいられなくなったり、その後も思い出したりするかどうかにあるのなら、この作品は紛れもなく、そのようなものだった。

高橋雅臣(2/14 観劇)

2014年3月19日水曜日

04. 日夏ユタカ「COME/AGAIN」

約80分ほどの作品のなかで、複数の曲がいくども繰り返された。
2回、3回。
なかでも、この作品の前身でもある東京デスロック版『再/生』では8回掛けられていた、ビートルズの『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』が、今回は10回と、より執拗に繰り返された。

しかも客入れの際にも、小沢健二の『今夜はブギー・バック』がバージョンちがいで流れつづけていた。ここはダンスフロアーなんだよと、強調するように。

それ以外でも、ダンサーたちの動きは反復し、
つまり一言でいえば、呆れるほど繰り返しの多い作品である。
そしてだからこそ、3回の上演すべてを観たいと、今回は思った。
もともと、おなじ作品をリピートして観るのが好きということもあるが、
なにより、作品の外側にもうひとつ反復をくわえてみたいと思ったのだ。

とはいえ、それは大した思いつきではなく、
しかも当然、ふつうなら、とても簡単なことだ。
チケットを予約し、毎日、開始時間にあわせて会場に赴けばいい。

ところが今回は、それが難しかった。
記録的な大雪のために。
東京から横浜への導線のいくつかは止まり、遅れも発生。
これから乗ろうとしている路線が、代替え輸送を検討しているとの情報もはいる。

それによって、『再/生』が3年前の震災の直後に誕生したことがあらためて、思い出された。
タイトルにふくまれた「/」という断絶。
簡単に日常を繰り返すことを許さない、突然もちこまれた不安定な世界を。

そう。ゆっくりと思い出す。
あのとき、横浜のSTスポットで生まれた『再/生』は死者に寄り添っていたことを。
まるで鎮魂の儀式であるかのように。

さらに思い出す。
それから約1年間、その作品は全国を廻り、
キラリふじみでの最終公演では、べつの作品に、
生者のための物語に生まれ変わっていたことを。
あるいは、大地の復活を願うような祈りも、そこには込められていたのではなかったか。
まるで、地を耕し種を撒き、豊穣を願う祝祭感もあったのだ。
そしてなによりも最後、踊り疲れて倒れたあと、
それでもなお立ち上がる俳優たちの姿にとめどなく感動したことも、当然ながら思い出す。


一方、今回、大雪の影響を受けながらも、3回の公演いずれも盛況のなか行われた、ダンサー・バージョンの『RE/PLAY(DANCE Edit.)』。
こちらは、俳優版で強調されていた疲労よりも、
前半、ダンサーたちの“踊り”を封じるというべつの負荷が印象的だった。
もちろん、ただそこに佇んでいても美しいのがダンサーの本質である。
ところが、ダンスを踊ってはいけない、という演出家からの指示が、
その最大の長所を縛る。

実際には、そのポージングはやはり美しいし、そこでの動きは面白い。
踊っているのではないかと思われるダンサーだっている。
飽きるほど繰り返される『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』ですら、
まるで飽きない。魅了される。
なのに、不自由さはたしかに伝わる。
踊ってはいけないという設定だけで、こんなにも窮屈に感じられてしまうのか。
それはちょっとみたことのない、不思議な“ダンス”だった。

もちろん、中盤以降からのダンサーたちは、呪縛から解き放たれ、
弾けるように本来の魅力あふれる踊りをはじめ、
生の輝きがステージ上に充満することになる。
踊ることが生のすべてであるかのような、
はたまた、死ぬまで踊りつづけようとするかのような輝きが。

しかも終盤、3回繰り返されるPerfumeの『GLITTER』でも、
驚くほど、ほとんどみな疲れはしない。
とくに初日、体力的な鮮度も高かったこともあるのだろうが、
曲間の無音状態のなか、だれも呼吸を荒げる音を洩らしてはいなかったのだ。
息を整える技術に長けているだけでなく、
呼吸の乱れを恥と捉える意識がダンサーにはあるようで、
そこは「疲労」を最大の言語として使っていた俳優版の『再/生』とはもっともちがうところだった。

しかし2日目、ダンサーたちは疲れを演じるようになっていた。
前日の雰囲気をしっているだけに、比べてしまうと、それはやや不自然な感じもあったか。
それでも、初日よりも動きの激しさが底上げされていたのにくわえ、疲労の蓄積もあったはずで、じつは演出なのか真実なのか、どちらとも断定できない状態が生まれていた。

そして最終日、あきらかに演技ではない疲労が舞台上に出現していた。
たとえば、ダンサーのひとり、きたまりの衣裳の背中。
初日、2日目には最後の『GLITTER』で認識できた汗による染みが、
最終日には、中盤の『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』で早くもみてとれたのだ。

なにより最終盤、それまで『GLITTER』の曲の終わりで綺麗にシンクロして倒れていたダンサーたちの足並みが、わずかに乱れた。
その瞬間、じぶんの意識が切り替わる。
それまで、もっと踊りつづけてほしいと、残酷にも囃したてたくなるような気分だったのが、
はじめて、もう立ちあがらなくてもいいよと感じたのだ。

それどころか、なぜ、じぶんは毎日こうやってただ座して眺めていることに安住しているのかという疑問も突如、湧く。
劇中流れる音楽は、観客に向けられてはいなかったか。
動け、踊れと。

実際には、じぶんたち観客が立ちあがれる瞬間は用意されてはいなかった。
音楽のライブやスポーツ観戦とは、状況がちがう、習慣がちがう。
立ちあがることも、ましてや一緒に踊りだすこともできはしない。
ただ、わかっていてもそれでも、こころのなかで衝動はたぎった。そしてその後、エンディング曲の『Dream Land』が流れ、Perfumeが「夢の中 キミは偽りの世界で」と唄うなか、演出の多田淳之介が『モラトリアム』や『リハビリテーション』、『東京ノート』という一連の作品のなかで、物理的に観客を動かそうとしつづけていたことを、じぶんは思い出していた。
さらに近作の『シンポジウム』では、観客のこころを動かそうとしていたことも。

つまりはすべて、その延長なのだ。
演劇が、舞台が、身体ではなくこころを動かすのは当然だろう、
なにを当たり前のことをいってるんだといわれてしまいそうだが、
いや、そうじゃなく、そういうことじゃないんだと、
うまく言葉にできぬあのときの気持ちを、いま思い出してもこころはさざめく。

そう、あのとき、
舞台から去るダンサーたちの導線は、観客の通路/出口でもあったのだ。
その重なり。
われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか。
3日間、繰り返されていたのは、
しだいに輝きを増すダンサーたちが体現していたものは、
踊ること、生命が動くことの全面肯定。
ずっと繰り返されていたのは、
もしかしたら、ただ安穏と座る観客への挑発とともに、
なにかの一時停止状態を解除する再生ボタンを押すこと、だったのかもしれない。


日夏ユタカ[ライター]

03. 藤原ちから「ダンスの閉塞感、を突破する演出とファンタジー」

云十年に一度という記録的な大雪の中で観た『RE/PLAY(DANCE Edit.)』は相当にアメイジングで、8人のダンサーたちの雄弁な身体と、それらが織り成すポリフォニック(多声的)な饗宴に圧倒された。いつまでもあの中にいたかった(彼らの体力が続くのなら……!)。

雄弁とはいえ、彼らは何か明瞭なストーリーを語っていたわけではなく、その身体言語は象徴的な意味を成す以前の状態(ジュリア・クリステヴァの用語に倣えば「セミオティック」)に留まっていたと思う。もちろん観客としては、それらを拾い集めて勝手なストーリーを組み立てるのも不可能ではない。わたしも最初は、この作品のベースになっている『再生』(2006年)初演時のストーリー、つまり「集団自殺を決意した人々による最後の饗宴」というイメージを重ねて観ていた。けれども、そんなストーリーの貼り付けは次第に無意味化されていった。そのセミオティックな身体言語のボキャブラリーはあまりに豊かに溢れていて、とてもとても、単一のストーリーに回収できるようなものではなかったのだ。

特にきたまりは圧巻だった。縦横無尽に動き、ひとつひとつのフォームが魅力的で、しかも引き出しが多い。決定機には必ずゴール前に顔を出すシャドウストライカーのような彼女の動きやポジショニングは、この舞台にファンタジーをもたらしていた。

ファンタジーとは何か? 「幻想」や「奇蹟」といった言葉が思い浮かぶが、わたしなりに解釈すれば、トキメキだと思う。かつてダンスを観てこんなふうにトキメキを感じたことがあったかどうか、思い出せない。ダンスに恋をしそうだった。ダンスへの愛が目覚めそうだった。

……裏を返せば、わたしはダンスを愛していなかったのだろう。舞台芸術の批評に手を染めているにもかかわらず、正直、ダンスにはこれまで一定の距離を感じてきた。というのもコンテンポラリーダンスとされるような舞台では、しばしばストイックな雰囲気の中で身体表現が展開される傾向があるようにわたしには見えるが、(最初は黎明期の偉大なダンサーたちへのリスペクトとその模倣によって生まれたのであろう)その形式はすでに形骸化したものとなり、もっと自由なはずのダンスの可能性を封じているようにも思えたからだ。洗練されたフォルムや、並外れて強靱な身体、あるいは土着の匂いを感じさせる特権的な肉体などがあればそれでも観客を圧倒できるかもしれないが、現代の若い俳優やダンサーの身体にそれを求めるのはかなり難しいだろう。(だからこそ桜井圭介は「コドモ身体」を提唱したのだと思うし、拙著『演劇最強論』の「ヴァルネラブルな俳優たち——ポスト・コドモ身体の俳優論」でもこの点について触れている。)

こうした危機意識は、ダンスの側(?)からも語られている。『RE/PLAY』が生まれるきっかけとなった「We dance 京都2012」のウェブサイトには幾つかのレポートが掲載されており(http://www.wedance.jp/2012_kyoto/forum.php)、ディレクターのきたまり自身が「ダンスの閉塞感から、身体の可能性へ」と題した重要な問題提起を行っている。

ではなぜ、今回の『RE/PLAY(DANCE Edit.)』は魅力的なものとして響いたのか? それはやはり、演出家・多田淳之介という他者が介在することによって、ダンサーたちの身体に「負荷」がかけられたというところがポイントだと思う。

多田淳之介は、『再生』初演(2006年)の頃から戯曲をほとんど書かなくなっている。昨今注目を集める演劇シーンでは劇作家が演出家を兼ねるケースがほとんどだが、多田は珍しく戯曲を書かない演出家であり、テクストや俳優を突き放して扱う力に秀でている。しばしば俳優に身体的負荷をかける(拘束衣を着せたり、激しく走らせたりする)のも、その手法のひとつだ。

『RE/PLAY(DANCE Edit.)』でも、激しく何度も繰り返し踊らせることによってダンサーたちを疲れさせ、彼らの自意識を超えたアンコントローラブルな領域を呼び込んだ。また、そうやって過剰な負荷をかける一方で、「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」が延々反復されるシーンでは、7周目までは「踊ってはいけない」、そして8周目以降に初めて「踊っていい」というルールになっていたらしい。何が「踊り」なのかはさておき、重要なのはダンサーたちに一種の抑制ギブスが嵌められていたことである。過剰と抑制——この両極の負荷によって、ダンサーたちの身体は追い込まれていく。

ダンサーたちもまた、ただパッシブにその負荷を甘受していたわけではない。どのようにこの課題を乗り越えていくかという、アクティブな精神を発揮していたように感じた。この作品が「集団自殺直前の饗宴」という当初の物語とは異なり、これからの未来を生きようとする意志やパッションに溢れていたのは、このアクティブな精神とおそらく無縁ではないだろう。

演劇的な「演出」がダンスを豊かにしていく可能性はもっと探られていいはずだ。もちろんそれは、ダンスに対して演劇のほうが優位だということを意味するものではない。演劇もまた「外部」と接触してその可能性をひらいていかざるをえない、という危機的状況に直面していると思う。というか、どんなジャンルであれ、内閉すれば衰えるのだ。踊ること、演じることは、太古の昔からあったのだし、おそらく人類が滅びないかぎり途絶えることはないだろうけども、単にジャンルとして固定化した「ダンス」や「演劇」は容易に死ぬだろう。『RE/PLAY(DANCE Edit.)』が果たして演劇なのかダンスなのかは、どっちでもいい。とにかくこの作品が、ダンス/演劇の新たな可能性をひらいたという事実が重要なのだ。

そしてやっぱりファンタジーは必要だ。時にはストイックに沈潜するのもいいけれど、自閉してはつまらない。すでにある文脈や作法を超えて、遠くに飛んでみることも必要ではないだろうか。そして観客(他者)を誘惑し、挑発するようなダンス/演劇が観たい。


藤原ちから[編集者・批評家・フリーランサー]

02. 住吉智恵 「快楽と死に向かう、ダンサーの性(さが)」

おそらく客席の多くを震撼、あるいは憤慨させたであろうこの作品は、なかなか抜けない魚の小骨のようなスッキリしない後味を残していった。

キャリアも年齢も身体能力も幅のある8人の振付家・ダンサーが繰り広げる、果てしない反復=再生。

爆音のポップソングにかき消されないよう、まるで音圧に抗うように、舞台上にこれでもかというほど「存在」し続けようとするダンサーたち。

しだいに疲労/倦怠していくことが想像できるが、それでもダンサーの性(さが)ゆえに手を抜くということを知らず、同じ強度で振りを全うしようとする様を目の当たりにして、観客ができること。それは「感情移入」もしくは「無関心」のどちらかでしかない。

ダンサー寄りの居ずまいで観た者(=筆者も)は、やがて自分に訪れるその「感情」に気づいたとき、それを演出家に見透かされたことに、ゾクッとしたはずだ。

徹底して距離を保った者は、この徹底した「置いてけぼり」感に、たまらない居心地の悪さを覚えただろう。

この効果はじつは現代美術の領域ではおなじみのもので、コンセプチュアルアート特有の手法に似ていなくもない。

しかし美術とダンスの動機が微妙に違うためなのか、舞台上に立ち現れたのは「アーティで知的な刺激」とは全く別のものであった。

たとえばバリ・ダンサーのように、一心不乱に踊り続けることで、人間が肉体から霊的に抜け出し、トランスの境地に入ることがあり得るとする。だとすれば、ダンサーたちはマゾヒスティックな悦びにうち震えていたのではなく、どこかパラレルな領域に半身を踏み入れていたのだろうか。 

「振付け」という拘束具を身につけている以上、それはなかっただろうが、あながち的外れでもないかもしれない。

「踊ると身体は疲れていくけど楽しい気分になるし、人生は身体はどんどん死に向かうのに楽しく生きようとする。『踊ること』と『生きていくこと』は似ている(後略)」(演出家・多田淳之介氏談)

この「発見」が、「再/生」ダンスバージョン制作の動機であったなら、ダンサーたちの身体感覚と感情は、引き裂かれることなく一体となって、快楽と死に向かっていただけだ。

そこには不条理ではなく、切実な「生」の時間だけがある。


住吉智恵[アートプロデューサー・ライター/「TRAUMARIS|SPACE」主宰]

01. 筒井 潤 「反復のダンス・反復しないドラマ」

『RE/PLAY(DANCE Edit.)』を、2012年に京都で観て、2014年には横浜でも観た。主たるコンセプトは反復。反復は反復ゆえに変化が生じないのが本来だが、生身の体なのでそういうわけにはいかない。時が経てば必然的に様々な変化が表れる。それを鑑賞していると云々…、といったようなことはどちらか片方を観ただけでもわかるので、他の方に委ねたい。私は京都と横浜の両方を観たからこそ持ち得た興味をここに記しておく。

京都公演と横浜公演のダンサーは、コンセプトに対してのアプローチがかなり異なっていた。横浜で参加していたダンサーは反復行為に忠実だった。彼らは可能な限り純粋な反復の時間を鑑賞者と共有することに努めていた。その反復による意図的な退屈さや徐々に疲労が露になっていくダンサーの存在によって可能とする、ドラマの萌芽の瞬間を捉えようとする意思が鑑賞者の心の中で稼動するのを、彼らは踊りながらもじっと待っているように見えた。一方で、京都で踊っていたダンサーからは、反復行為を見せるのではなく、最初から疲労するために反復し、その疲労から見える個々のドラマを惜しげもなくどんどん提供しようとする意図を私は感じた。ダンサーの身体は激しいダンスによって立ち上がることもままならないほどに実際に疲れていたが、ダンサーはそうなることが華々しいエンディングであるドラマに出演し、演技する俳優のようだった。

以上のような表現者の差異は、観る側の反応にも表れた。横浜の鑑賞者は、感情の変化はそれぞれにあるのだろうが、舞台上の小さな変化を見落とすまいと静かに見つめ続ける態度を崩さないのに対し、京都の鑑賞者は大いに笑い、歓声を上げ、上演中にもかかわらず盛大な拍手をダンサーに送った。

どちらのダンサーも同じコンセプトを示されてからリハーサルをスタートし、そして本番に臨んだはずである。もちろん創作過程において多田淳之介が参加ダンサーの返してくるものを受けて熟考し、演出を施して上演に至ったわけであろうが、こんなにふたつの上演が異なる印象のものとなったのは、やはりそこに関わったダンサーの考え方の違いが強く反映したからであろう。私は、もしかするとそういった違いを浮き上がらせるために反復というコンセプトを彼は用いたのかもしれないと思った。


                  筒井 潤[演出家・劇作家/dracom リーダー]