2014年3月19日水曜日

03. 藤原ちから「ダンスの閉塞感、を突破する演出とファンタジー」

云十年に一度という記録的な大雪の中で観た『RE/PLAY(DANCE Edit.)』は相当にアメイジングで、8人のダンサーたちの雄弁な身体と、それらが織り成すポリフォニック(多声的)な饗宴に圧倒された。いつまでもあの中にいたかった(彼らの体力が続くのなら……!)。

雄弁とはいえ、彼らは何か明瞭なストーリーを語っていたわけではなく、その身体言語は象徴的な意味を成す以前の状態(ジュリア・クリステヴァの用語に倣えば「セミオティック」)に留まっていたと思う。もちろん観客としては、それらを拾い集めて勝手なストーリーを組み立てるのも不可能ではない。わたしも最初は、この作品のベースになっている『再生』(2006年)初演時のストーリー、つまり「集団自殺を決意した人々による最後の饗宴」というイメージを重ねて観ていた。けれども、そんなストーリーの貼り付けは次第に無意味化されていった。そのセミオティックな身体言語のボキャブラリーはあまりに豊かに溢れていて、とてもとても、単一のストーリーに回収できるようなものではなかったのだ。

特にきたまりは圧巻だった。縦横無尽に動き、ひとつひとつのフォームが魅力的で、しかも引き出しが多い。決定機には必ずゴール前に顔を出すシャドウストライカーのような彼女の動きやポジショニングは、この舞台にファンタジーをもたらしていた。

ファンタジーとは何か? 「幻想」や「奇蹟」といった言葉が思い浮かぶが、わたしなりに解釈すれば、トキメキだと思う。かつてダンスを観てこんなふうにトキメキを感じたことがあったかどうか、思い出せない。ダンスに恋をしそうだった。ダンスへの愛が目覚めそうだった。

……裏を返せば、わたしはダンスを愛していなかったのだろう。舞台芸術の批評に手を染めているにもかかわらず、正直、ダンスにはこれまで一定の距離を感じてきた。というのもコンテンポラリーダンスとされるような舞台では、しばしばストイックな雰囲気の中で身体表現が展開される傾向があるようにわたしには見えるが、(最初は黎明期の偉大なダンサーたちへのリスペクトとその模倣によって生まれたのであろう)その形式はすでに形骸化したものとなり、もっと自由なはずのダンスの可能性を封じているようにも思えたからだ。洗練されたフォルムや、並外れて強靱な身体、あるいは土着の匂いを感じさせる特権的な肉体などがあればそれでも観客を圧倒できるかもしれないが、現代の若い俳優やダンサーの身体にそれを求めるのはかなり難しいだろう。(だからこそ桜井圭介は「コドモ身体」を提唱したのだと思うし、拙著『演劇最強論』の「ヴァルネラブルな俳優たち——ポスト・コドモ身体の俳優論」でもこの点について触れている。)

こうした危機意識は、ダンスの側(?)からも語られている。『RE/PLAY』が生まれるきっかけとなった「We dance 京都2012」のウェブサイトには幾つかのレポートが掲載されており(http://www.wedance.jp/2012_kyoto/forum.php)、ディレクターのきたまり自身が「ダンスの閉塞感から、身体の可能性へ」と題した重要な問題提起を行っている。

ではなぜ、今回の『RE/PLAY(DANCE Edit.)』は魅力的なものとして響いたのか? それはやはり、演出家・多田淳之介という他者が介在することによって、ダンサーたちの身体に「負荷」がかけられたというところがポイントだと思う。

多田淳之介は、『再生』初演(2006年)の頃から戯曲をほとんど書かなくなっている。昨今注目を集める演劇シーンでは劇作家が演出家を兼ねるケースがほとんどだが、多田は珍しく戯曲を書かない演出家であり、テクストや俳優を突き放して扱う力に秀でている。しばしば俳優に身体的負荷をかける(拘束衣を着せたり、激しく走らせたりする)のも、その手法のひとつだ。

『RE/PLAY(DANCE Edit.)』でも、激しく何度も繰り返し踊らせることによってダンサーたちを疲れさせ、彼らの自意識を超えたアンコントローラブルな領域を呼び込んだ。また、そうやって過剰な負荷をかける一方で、「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」が延々反復されるシーンでは、7周目までは「踊ってはいけない」、そして8周目以降に初めて「踊っていい」というルールになっていたらしい。何が「踊り」なのかはさておき、重要なのはダンサーたちに一種の抑制ギブスが嵌められていたことである。過剰と抑制——この両極の負荷によって、ダンサーたちの身体は追い込まれていく。

ダンサーたちもまた、ただパッシブにその負荷を甘受していたわけではない。どのようにこの課題を乗り越えていくかという、アクティブな精神を発揮していたように感じた。この作品が「集団自殺直前の饗宴」という当初の物語とは異なり、これからの未来を生きようとする意志やパッションに溢れていたのは、このアクティブな精神とおそらく無縁ではないだろう。

演劇的な「演出」がダンスを豊かにしていく可能性はもっと探られていいはずだ。もちろんそれは、ダンスに対して演劇のほうが優位だということを意味するものではない。演劇もまた「外部」と接触してその可能性をひらいていかざるをえない、という危機的状況に直面していると思う。というか、どんなジャンルであれ、内閉すれば衰えるのだ。踊ること、演じることは、太古の昔からあったのだし、おそらく人類が滅びないかぎり途絶えることはないだろうけども、単にジャンルとして固定化した「ダンス」や「演劇」は容易に死ぬだろう。『RE/PLAY(DANCE Edit.)』が果たして演劇なのかダンスなのかは、どっちでもいい。とにかくこの作品が、ダンス/演劇の新たな可能性をひらいたという事実が重要なのだ。

そしてやっぱりファンタジーは必要だ。時にはストイックに沈潜するのもいいけれど、自閉してはつまらない。すでにある文脈や作法を超えて、遠くに飛んでみることも必要ではないだろうか。そして観客(他者)を誘惑し、挑発するようなダンス/演劇が観たい。


藤原ちから[編集者・批評家・フリーランサー]

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